甲香は、ほら貝の樣なるが、小さくて、口の程の、細長にして出でたる貝の蓋なり。武藏の國金澤といふ浦にありしを、所の者は「へなたりと申し侍る」とぞ言ひし。・・・・・・・・・・・・・・・聖書にも「はじめに言葉ありき」とあるように、物事やそれに付随する「意味」を正しく知るためには言葉が必要です。しかし正しい意味を知らずとも言葉を使えることもあり、「たたら」の意味を知らなくても「たたらを踏む」と言ったり、「カツアゲ」のカツは恐喝のカツだと知らなくても、「カツアゲする」と言ったりすることは可能です。英語を勉強するときなどもそうです。細かい文法を知らなくても、とにかく英文を読み捲ったり喋り捲ったりしたほうが、早く身に付けることができるのではないでしょうか。トレーニングも同じで、頭でっかちにトレーニング理論ばかり勉強しているトレーナーよりも、トレーニング本を読んだこともなさそうなジムにいるタンクトッパ―のほうがマッチョだったりする例はいくらでもあります。「理論より実践」なわけですが、理論派をさらに困らせることに、ヒトには「個人差」が存在します。言葉は比較的厳密に使用することができますが、それでも誤解されるようなことはあり、憲法ですら拡大解釈を許しているくらいです。トレーニングの場合、理論通りにいかないことはいくらでもあって、ありえないトレーニングなのに凄く発達していたり、厳密に考えたプログラムを実行しているのに思うように発達しなかったりという例は数多く、トレーナーはせいぜい「後付けの理由」を考え出して説明しているに過ぎないのが現状かもしれません。さて、厳しいはずの審査を通った医薬品でも、「実は効かなかった」として回収されることがあります。サプリメントについては言うまでもないでしょう。しかし、明らかに効果が実証されているサプリメントもあります。真実を見つけ出すための推論法には「演繹」と「帰納」の二種類があります。ビタミンCやEPAなどが効くというのは膨大な観察結果から導き出された「帰納法」による結論であり、もはや効果を疑うまでもありません。それでもヒトの身体はブラックボックスであり、100人が100人効くということにはならず、その本当のメカニズムを知るためにはまだまだ時間が必要となりそうです。観察結果が少なく、十分な帰納法を行うことができない場合、演繹による推論をくだし、それを実践するしかありません。ただメチャクチャに実践するのではなく、やはり理論を踏まえた上で、トレーニングや栄養摂取を考えていかねばならないということです。筆者は個人的に、「演繹による推論こそ、エレガントである」と考えています。「こういう体験談があるから、こういうトレーニングを行う」のではなく、「こういう身体のメカニズムだから、こういうトレーニングを行う」というポリシーのもとにプログラミングを行います。このときに重要なのが、理論に固執しないことです。結果が伴わない場合は理論のどこかが間違っているのであり、速やかに考え直すこと。これは理論がいい加減だというわけではなく、新しい情報を受け入れて、新しく理論を作り直すべしだということです。こうして演繹法によるトレーニング理論は洗練され、いつしか数学的な正しさを得ることができるようになるはず。それを見届けるのが筆者の夢でもあります